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2011-07

道の辺に咲く花

去年の夏、父方の祖母が亡くなった。

膝を痛めて二年ほど前からあまり出歩くことが出来ず、
亡くなる直前は日常生活をおくることも困難なほどになってしまっていたので
いよいよデイサービスにお世話になる予定だった。

祖母は田舎特有の恥じらいをもった人だったので
ろくに歩けなくなってしまった姿を人に見られるのが嫌で
「誰にも会いたくない」と言い
デイサービスに行くことをひどく拒んでいた。

そんな矢先、
どしゃ降りの雨の朝、雨音にまぎれるようにして去っていった。
祖母らしく、目立たぬようにひっそりと。
デイサービスにお世話になる二日前だった。

そんな道野辺に咲く花のような、
とても慎ましやかな去り方をした祖母が
愛おしくてしかたなかった。

そしてその花の咲く往来を
ただせわしなく行ったり来たりしているだけだった自分が、
情けなくて、哀しくて、涙がとまらなかった。

どうしてもっと話をしなかったのだろう。
どうしてもっと祖母の立つ場所に僕も立ってあげることができなかったのだろう。
いまさら考えても想ってもどうすることもできない。

道の辺に咲く花は自らが根を下ろした場所に
ただ咲いていたかっただけなのかもしれない。
その場所にはきっと、本人にしかわからない幸せがあったのだろう。

祖母の死が僕におおきな何かを運んで来た。
それを受け止めてから僕は何も書けなくなった。
人の書いたものも読めなくなった。
カラダが一切の情報を受け付けなくなってしまった。

自分の身近な関係を、カラダで触れ合える距離の関係を
ないがしろにした状態で、文字情報のやりとりをするのは僕には苦痛だった。
blogもmixiもtwitterもただ言葉がかわいそうで出来なかった。

それから僕は身近な関係を、
ひとつひとつの触れ合える関係をただ大切に過ごして来た。

人もモノも、虫や鳥も自分のカラダが責任をもって関われる関係を
ただ丁寧にコミュニケーションをとるように心がけた。

するとだんだん観えてくるもの、聴こえてくるものがあった。
僕がコミュニケーションをとりたいと思っている
者や物やモノはみんなblogもmixiもtwitterもしていない。

かやぶきもジジババも自分から何かを発信することはしない。
いま本当に必要なのは”口”よりも”耳”なのだということ。

積極的なディスコミュニケーションと
どの領域にもジャンプできる縦横無尽のコミュニケーション能力。

ばぁちゃんの死が僕に運んできたものは沈黙だったのだと思う。
耳を澄ますことからもう一度始めるための豊かな沈黙。

僕は田んぼの生き物や草原の植物や神社のケヤキのtweetを聞きとりたいと思う。
多くのかやぶきやジジババをfollowしたいと思う。

実はそういう風に想いだしてからたくさんのかやぶきとジジババに知り合った。
みんな僕のことを孫みたいに思ってくれていて、
なかにはメル友になったばぁちゃんもいるんです。

ブログを書かないと引きこもったみたいに思われているかもしれないけど、
前以上に豊かな関係の中に生きていました。
これからも書けるかはわからないけど言葉が出てきたら書いてみます。
くさかんむりのブログを読んで下さっていたみなさまには
ご心配をおかけしました。
申し訳ございません・・・

ばぁちゃんの一周忌の法要の日、
なんの因果か僕は神戸のデイサービスの会社に依頼されて
ジジババの憩いの場としてかやぶき小屋をつくっていた。

不思議なこともあるなぁって思っていたけど、
きっとばぁちゃんがチャンスをくれたんだと思う。
色々後悔している僕に恩返しの機会を与えてくれたんだと思う。

花子ばぁちゃんありがとう。
ごめん。
おやすみ。

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